またまた獅子ヶ滝・物見山コース。今の自分に適した運動量と少し重い不可のコース。上り坂においてのギヤ選択、重めでゆっくり回すか、軽めでくるくる回すか、どちらが楽なのか。体感的には”やや重めで低速”を楽と感じるが、楽なのは呼吸だと気が付いた。重ければ筋肉疲労で長くは続かない。楽なのとトレーニング効果は同じなのか、というのもわからないところ。
ネット検索してもなかなか答えは得られなかったが、ブリジストンの「BRI-CHAN」というサイトにほぼ答えが。心肺と筋力への負荷のバランスがよいころはクロスバイクの場合 想定スピード15〜25km/h ケイデンス60〜80回転 なんだそうで、自分の平均ではスピード15.5km/h ケイデンス60回転 となっていて最低線ギリギリ(平均で考えてはいかんのだろうが)。
実際の上り坂になると、勾配によりインナー×1~3速での勝負になっている。今の所1速・2速にならざるを得ない場合は、ケイデンスにかまっている余裕はなく、止まってしまわないように何とか漕ぎ続けるのが精一杯。トレーニング効果を選択できるレベルではない。
はっきり理解できたのは、軽くしてくるくる回すと心肺機能の向上、重くして踏ん張るのは筋力強化になるらしいという事。現実には最ロー使ってスピードが上げられないので筋力も心肺機能も伸びしろだらけだという事だが、年齢を想えばすでに伸びしろは少なく、最ローでもくるくる回せるようになる道のりはとてつもなく厳しい。
寄り道
清流線の上り坂の麓にも石碑がある。石像ではなく石碑なので目的は文字が頼りだが読めないので何者かわからない。
石碑はここに、背後は棚田で、その奥の山林には昔寺が立っていた。この棚田はその寺持ちの田だったのだろうか、日高市の田として一番美しいと感じる。
その遺跡を「高岡廃寺」(僧勝楽の菩提寺と言われている)と呼んでいる。その入り口のしるしかとも思えるが、年号を確認すると「弘?二巳三月?」と読める。
「弘」の年号は 「弘仁」「弘長」「弘安」「弘和」「弘治」「弘化」とあり、よく見れば「化」の作りが「ヒ」と読める。「弘化」ならば西暦1844年~1848年であり、江戸が終わる20年前なので「高岡廃寺」とは全く関係がない。ただ、『新編武蔵風土記稿』によれば、高岡には聖天院の「坊」があったとの記事があり、また高岡廃寺は火災で移転し、今の聖天院の前身(今より少し南に立っていたが、火災で焼けて今の位置に再建)となったらしいので、この「坊」と関係があるのかもしれない。この辺りの歴史は謎が多く面白い。
裏側には石灰岩特有の凸凹や切り出したノミ跡と思われる傷が沢山ある。
前回、前々回の石像との年代関係については
清流線入り口の石仏:天保(1830-1844/飢饉は1833-36)
途中の石仏:天明(1781-1789/飢饉は1782-1788)7年(1787)
高岡廃寺近くの石碑:弘化(1844-1848)2年(1845)
天明の飢饉の年に清流線の入り口から400m奥に石仏(地蔵か)、約50年後の天保の飢饉の年に清流線入り口に石仏(観音像か)、そのまた60年後に入り口から1200mほど奥に石碑を立てたことになる。
「坊」の記録がある「新編武蔵風土記稿」は1804年から1829年(天明飢饉後16年、天保飢饉前)に作られたので、石碑を立てたころまで坊があったかはわからない。「新編武蔵風土記稿」編さん時に有ったのは真ん中の地蔵と思われる石仏だけ。