2024-11-25

吾那神社に寄ってみた 奥武蔵阿寺線から東峠越え

今回ルートは吾那神社に寄りたいので選んだ

宿谷権現堂線⇒グリーンライン⇒阿寺線⇒林道長尾坂野口入線(距離:36.33 km  獲得標高:861 m  タイム:2時間 8分)

この神社が、風土記稿の黒山村の熊野社(山本坊)の文に出てくる「武州入西郡吾那越生郷新熊野(略)武蔵国吾那小山一乗坊新熊野」かもしれないなどと思ったものだから。

299号国道から短い参道

中段の鳥居前から

拝殿

拝殿にはこんな掲示 え?白山信仰?

縁結び?

榛名神社?

というわけで、わけわかりません。調べたら
「明治44年に近隣の地、稲荷、八幡、白山(字橋本)、白山(字中居)山、天満の7社を合祀し、さらに大正4年に白子村社、白髭神社を合祀して吾那神社と改称した。」とありました。明治政府によって無理やりたくさんの神様が共同生活をなさっていて、得意技を繰り出す神社になっていました。廃仏毀釈も奴らの仕業、日本の文化を大いに破壊した悪党です。

最初の疑問に立ち返り、そもそもこの吾那神社とは風土記(新編武蔵風土記稿)の虎秀村に
「熊野社 天正十九年社領九石の御朱印を附せらる当村及ひ平戸村の鎮守なり例祭九月十九日東明寺の持ちなり
東明寺 東映山一条院と号す新義真言宗入間郡今市村法恩寺の末なり本尊弥陀を安す」

ここの熊野社(吾那神社)は東明寺のものなんですが、東明寺は新義真言宗の法恩寺の末となっています。新義真言宗の修験は当山派なんです。黒山熊野神社や山本坊は本山派。どちらももとは役の行者で熊野あたりが発祥とのことですが、室町時代(1336年~1573)には対立関係にあったのですね。(驚くことに熊野神社には当山派もあったようです)でも宗派が違うのでこの熊野神社(現吾那神社)は、残念ながら山本坊とは同一団体ではなさそうです。

また 新熊野 は熊野神社の新しい社殿ではなく、新熊野神社(いまくまのじんじゃ)といって、そのHPの由緒には
「熊野信仰盛んな平安末期、後白河上皇は紀州国(和歌山県)の熊野の神を勧請、1160年熊野の新宮、新熊野神社を創建した。その際、熊野の土砂材木等で、社域を造成、社殿を造営、那智の浜の青白の小石をまき、熊野をここに再現した。」
とあります。どうも本山派のようです。

戻って、黒川熊野神社(黒山三滝の山本坊)の風土記稿の
「應永廿四年五月十九日武州入西郡吾那生越郷新熊野常佳執筆□観と記し及同年六月廿日武蔵国吾那小山一乗坊新熊野なと記せしもあり」
の新熊野神社が生越郷に有ったのでしょうか。「武蔵国吾那小山」とは吾野の字小山なのでしょうか、それとも吾野の小高い山なのでしょうか。風土記は生越に小山という地名はないのでわかんないと言ってます。

吾那神社が山本坊の三番目の拠点かと思ったのは「吾那」が現在の「吾野」であること、「熊野平に有った熊野神社」であること、黒山三滝一帯は顔振峠を通って関東に出ていて、その沿道に当たること、熊野神社なら本山派で同一宗派だろうと思った、「一乗坊新熊野(黒山熊野神社)」と「東映山一条院(吾那神社の東明寺)」が似てることなどだが、やっぱり素人考えは当たらない。 新たに「新熊野神社」があったのではないかとの疑問が増えた。

東峠手前の天望 一番奥にスカリ山

横手から日和田山、膝の問題でもうしばらく登っていない

参照資料
新編武蔵風土記稿、越生町、毛呂山町、飯能市各HP、円泉寺HP、OMAIRI HP、将門ブログ、猫の足あとHP、新熊野神社HP などなどです。

近いうちに本山坊移転の地、歴代の墓周辺を見てみたい。円栄の宝篋印塔も見てみたい。

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